2021年2月1日月曜日

父が亡くなった後で、知ったこと

 すっかりご無沙汰してしまいました。

昨年の10月10日に父がリビングで転んで、ベランダに出るガラス扉の角で頭を切り、  救急車で運ばれて、そのまま入院しました。傷もよくなり、容態が安定したと思ってた   11月15日(土)朝、容態が急変して亡くなりました。

先日四十九日も過ぎて、だいぶ落ち着きました。91歳だった父、入院する直前まで、自分の足で歩き、母の作った料理を食べることが出来ていて、幸せだったんじゃないかなと今は思えています。

父の葬儀とその後のいろんな手続きで、千葉の実家に何度も足を運び、87歳で一人残された母のことも心配で、話したり、用事を足したりしていました。

その中で、父が亡くなって初めて知ったことがありました。

父は広島生まれで、原爆が落ちた時に爆心地から2kmのところにいたものの、建物の陰にいたことで命拾いしたことは聞いていました。

晩年「オレは「原爆手帳(被爆者健康手帳)」を持っているから、医療費はかからないんだよ。」という話も聞いていました。

ただ、いつ「原爆手帳」を持ったのかは知らず、戦後すぐくらいに持っていたのかと思っていました。

父の葬儀の後「原爆手帳」を返還する手続き(手元に置いておきたい場合はさらに手続きが必要)をしていた時、母がポロリと話してくれました。

「パパは、あなたが結婚するまで原爆手帳をもらわないって思っていたみたい。昔だから被爆者の娘というレッテルが結婚の妨げになることを恐れていたんだと思うの。あなたが結婚して、しばらくしてから「原爆手帳」を取得する手続きを取り出したんだけど、あれは証人が5人必要で、戦後50年近く経ってたから、5人の知人を見つけて、証明してもらうの大変だったのよ。」

知らなかった。そんな思いで「原爆手帳」の取得を思いとどまっていたなんて。

小さい頃は細かいことでよく怒られたし、大人になってもよく喧嘩したけど、子供が大好きで、子供思いな父だということはわかっていた。でも、そんなことまで思っていたなんて、子供の私は全然知らなかった。

大事にしてもらっていたんだな、たくさん愛してもらったんだな、と涙が溢れてきました。(書いている今も、溢れてきます。)


遺影に選んだ父の写真

パパ、本当にありがとう!パパの娘でよかったです。

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